前へ戻る


1998年2月レポートから

自分の信念を大切に


1998年も1カ月が過ぎました。世間ではやれ金融不安だなどと騒いだかと思えば、関東では大雪が何度か降って交通機関が混乱したりしていました。といっても私には何一つ問題はなく、平穏無事な生活が続いています。何故か個人セッションの予約が入っていなかった日に大雪が降っており、遅れるだのキャンセルだのというトラブルが何もなかったのです。証券だの銀行だのも私には縁のない世界であり、必要な人にだけ影響していることがよく分かります。

最近の私自身の学びとしては、「計画を立てない」ということです。計画・予定を立てても何故かうまく進まず、結果的に宇宙の思い通りに進んでしまいます。頭で考えた計画はほとんど無視されてしまいます。結局、諦めて、計画を立てずにすべてを宇宙にまかせること。言うのは簡単ですが、実行は本当に難しい。

さて、宇宙からの言葉として「今年もテストの時期が近づいてきました 」というのがありました。どうやら、毎年、2〜3月はテストの時期のようです。昨年の例から少しは雰囲気が分かってきました。他人の言うことは気にせず、常に自分を信じていればそんなに混乱はないでしょう。昨年は「縋(すが)るエネルギーを手放したかどうか」のテストでしたが、今年はニューエイジのエネルギーを手放したかどうか、かもしれません(まだ分かりませんが)。すでにヒーリングなどの仕事をしている人、皆で助け合って、頑張りましょう。勘の鋭い人なら分かるかもしれませんが、この毎月のセントラルサンのレターがヒントになっています。実に巧妙に皆さん方の心の鏡の役割を演じていて、このレターを読んで浮かび上がってきた諸々の感情(不快感)がその人のテーマです。 (Yuji)


自分の信念を大切にしよう

創造的で、自立した生活を送っていますか。精神的な自立というのが実践面において難しいという人がいるようです。ごくわずかですが、自分を見失っている人もいます。自分を見失っている人の話をよく聞いてみると、二つのタイプに分かれるようです。一つは他人の評価を気にし、他人の判断で自分の姿を造り上げ、善人たらんとすることに終始している人。もう一つは、精神世界に興味を持ち始めた人がはまってしまう現象ですが、ヒーラーやチャネラーの言葉を全面的に信じて、自分なりの正しい生き方を探して、よく言えば使命感に燃えている人。

最初のタイプの人は、自分ではマトモだと思い込んでおり、他人に合わせている自分でもそれを自分では本来の姿だと信じているため、自分で気がついている人があまりいません。自分が他人と同じ仲間であるという安心感を得ようとして必死になっており、会話でもやたらと「〜〜ってあるでしょ」「〜〜じゃないですか」というような同意を求める話し方が目立ちます。「私はそうは思わない」と言うと、途端に怒り出して「だってAさんもBさんも、Cさんもそう思うって言ってますよ」、と言うように、他人の評価が尺度になっていて、自分でも自分が分からなくなっています。

また、話の大部分が「Aさんによると私は〜〜で、Bさんによると私はもっと〜〜した方がよいみたいだって」というように、自分が判断すべきことのほとんどを他人に預けてしまっています。そしてそのことを指摘しても、本人は何がよくないのか、まったく理解できていないのです。おまけに「Aさんもそう思うって言ってるよ」と、自分を正当化するにのも他人の意見を引用します。そして批判されるのを極度に恐れています。真面目な人の場合は、他人に言われたとおり行動し、うまくいかなかったときは「信じた私がバカだった」という気持ちを持つ人もいます。しかし我の強い人は「あの人の所為でこんなことになってしまった」と他人の所為にします。

こういう人たちは、他人の目を気にしている自分をもっと分析し、それによって押し込められてしまった本来の自分に光を当てることが必要です。想像以上に他人の影響が大きく、多くの人は他人のエネルギーが体全体を包み込み、場合によっては魂のエネルギーすらも閉じ込められてしまっている場合があります。せっかく魂が光を放とうとしても、何もできないのです。閉じ込められている本当の自分にもっと光を当てましょう。

後者のタイプですが、精神世界に興味を持ち始め、「あなたのガイドは天使です」「前世はイルカでした」などと言われて使命感に燃え、スピリチュアルな能力をもっと高めようとして躍起になっている人たちです(すべての人間に守護天使がついています。それ以外の天使が特定の人間だけを個別にガイドすることはあり得ません。また前世がイルカのような動物であることはあり得ません)。口癖は「何をして良いのか分からない」です。私も、何年か前、自称「霊感の鋭い人」たちに「前世は〜〜」だの「前の惑星では〜〜」だのと何度も言われたことがありましたが、すべて間違っていました。何一つ、当たっていません。大部分がその人の概念や妄想から生み出されています。

でも、ほとんどの人はそういう情報を聞くと心が躍動し、使命感に燃え、目も血走ってきます。その時はとても危険で、隙を造り、魔が入りやすくなってしまいます。霊的な能力を身に着けたい、人々を指導したいというような気持ちを持つと、必ずといってよいほど魔が入り、いろんなテストをされます。本当に我を折り、欲を捨て、素直な気持ちを身に着けるまではテストが繰り返されます。これは何千年もの前から続いている宇宙の一貫したやり方であり、スピリチュアルな世界に足を踏み入れた者は必ず受ける必要があるのです。大体、90%以上の人はこの段階で真の光から離れてしまいます。

スピリチュアルな世界での学びは本当に注意が必要です。わずかでも我欲を抱えている人は、とにかく利他愛を身に着けること、楽をしようとしないことに専念することが必要です。いうまでもなく「愛を広げたい」「地球を救いたい」もエゴであり、地球自身はこういうエネルギーを望んではおりません。真の愛とは何か、真の救いとは何か、もっと本質的なところから考える必要があります。

使命感に燃えて自分を見失っている人、もう一度、現実をよく見つめましょう。ヒーラーやチャネラーから言われたことがそのへんの本に書かれている内容の言い換えではないかどうか。民族によっても役割が違います。その人が日本民族に精通しているかどうか。ワクワクする言葉の羅列になっていないかどうか、よく分析して対処してください。 (yuji)


善悪はないという意味

よく「良いも悪いもない」と言われます。私も時々、そう言ってきました。しかし、その真意を理解している人がほとんどいないことに気がつきました。「良いも悪いもない」というのは善悪の価値判断を超越した人に当てはまることであり、三次元世界の仕組みを理解し尽くした場合に認識される境地です。何をやっても良いというわけではありません。日常の生活に翻弄されている人は「正しい生き方」を自分なりに確立する学びをする必要があります。

ここで改めて、正邪善悪について考えてみましょう。日本語では「良い・悪い」と簡単に言ってしまいますが、英語では"right, wrong, good, bad" となります。正邪は方向性が宇宙の法則に則っているかどうか、神の御心に沿っているかどうかが基準であるならば、善悪はその人の価値観や社会通念から見た場合に、全体的に見て楽しくうまくやっていけるかどうかが基準となります。したがって善悪、いわゆる良いか悪いかは相対的なものであり、人によって違えば世代によって違い、人種によっても違います。一般に、皆で楽しい社会を造り上げるために習慣やルール的なものがつくられ、それに従うことを良いことと認識してきましたが、正しいけれども悪い場合や、正しくないけれども良い場合があります。

社会生活を営むにつれ、いろんな人間と出会い、いろんな価値観の必要性が理解されてくると、良い、悪いという観念が人それぞれ固有のものであり、他人の価値観に口出しすることが無意味なことに気づいてきます。単に一人ひとりが最適な環境で学びをしているということに理解が深まり、自分は自分のテーマを克服することが「良い」ことであり、自然なことだと分かってきます。ただその境地を理解できていない人には善悪の価値感があり、後悔したり他人を責めたりするでしょう。それはその人にとって必要な学びであり、そういう人たちに「善悪はない」と言うのは中学生に向かって「数学は必要ない」と言っているようなものです。相手の学びに口出しすることは止めましょう。

正邪はその人の理解している宇宙の法則が基準になります。進化の法則に合っていれば正しく、怠惰に流されていたら正しくはありません。ただ、進化とは最小限の破壊を伴った最大限の創造であり、どうしても破壊的な現象に目がいきます。そこだけに意識を向け、否定的な思いを発する人がいますが、大いなる創造の方に意識を向けることが大事です。

スピリチュアルな学びをしている人でも、同じ波動の人々が集まる、という法則をまだ理解していない人の場合は、三次元的な執着をもった生活をしている人たちの行動を正しくないように思うでしょう。しかし魂によって必要な学びが違い、今、その魂は三次元的な学びをわざと体験しているということに気がついたら、その人がどういう行動をしようとも「あなたの行動は間違っている」と指摘することはできません。ただ、明らかにその人の魂は執着を手放そうとしている感じが伝わってきているのに、その人が執着に負けた言動をとっている場合、「自分が」執着を手放す必要があるということを理解する必要があります。他人は自分の鏡、という法則は常に、誰にでも適応されます。他人を見て自分を修正していきましょう。


部分は全体のために自己を捧げる

古代からの智慧では、自分を知るということは、自分の価値を高めることに意味があるのではなく、自分を知ろうとする行為そのものに価値がある、とされています。そうは言っても、自分のルーツを探して冒険をすることはとても楽しく、それなりに意味があります。今年に入っての瞑想でまた面白いことがありました。「これから故郷に連れていってあげましょう」という声が聞こえてきたのです。「故郷?」と不思議がると、「生まれ故郷ですよ」という返事が来ました。

今まで、一昨年は魂の故郷というところに行き、母親的なエネルギーに何度か出会って涙の対面をし、昨年は魂の母親(太陽の神殿にいた)と父親(太陽の城にいた)に出会ったり、魂を創る役割の評議会の存在たちと出会ったりしてきました。「故郷へ連れていってあげましょう」の故郷とは何なのか、また新たな思いが湧いてきました。しばらくすると、説明と同時に体験が始まりました。

まず初めに光が創られました。光は光のないところで創られました。光は光であるために、自ら強くなっていきました。だんだん強さを増し、自ら光っていきました。ある段階にまで達すると、光ある存在たちが次の段階にきたことを察したのです。「そろそろいいかな」といって彼らはそこから去っていきました。そして、その時、光に生命を入れていったのです。光は生命を持ちました。光は自らの為に生命を宿したのです。生命を宿した光は自らのために活動を始めました。自分が自分であるために活動し始めたのです。ある時、光は他の光と交わり、新たな光を創り出しました。喜びでした。さらなる喜びを求め、多くの光と交わり、新たな光を生み出していきました。

光が別の光と交わるとき、とても素晴らしい真理に気がつきました。「自己犠牲」「自己放棄」の意味が分かったのです。仮に赤い光があったとします。赤い光は緑の光と交わって黄色の光をつくります。このとき、赤は自分が赤い光だという意識を完全に放棄しなければ黄色にならないのです。少しでも「自分は赤」という意識を持っていたら赤い光になってしまい、黄色にはならないのです。お互いの光が自分を放棄してまったく新しい光を生み出す。これがキリスト意識であるということの実感が得られたのです。

12月の「キリスト意識とサナンダ意識」の月例セミナー以降、キリスト意識についていろいろと考えさせられていたときであっただけに、本当に感動しました。部分は全体のために自己を捧げる。古代からの偉大なる智慧は「自己犠牲」と「自己放棄」を強調してきました。罪悪感や執着を伴う自己犠牲は好ましくありませんが、真の宇宙の進化を考えた場合、全体のための自己犠牲は本当に必要だと感じました。(Yuji)


前へ戻る

(c)1998 CentralSun