年末が近くなってくると、いよいよ来年は1999年ということでいろんな予言めいた話が出てくるでしょう。でも宇宙のメッセージはきっぱりと否定しています。予言を信じている人にはそのような現象が近づいてくるでしょうが、信じない人には混乱はやってきません。政治経済がおかしくなっているのは単に新しい社会では不要だからであり、素直に手放すことが必要です。したがって湧き起こる終末論争には誰も耳をかさないようにしましょう。(Yuji)
目に見えない世界に関心を持ち、大いなる宇宙の御心に触れると、その素晴らしさに感動し、御心に沿った生き方をしようと考えます。「人々に愛を」「地球に愛を」「生きるものすべてに愛を」と願います。はじめはそれこそが自分のやることと信じて、家庭や職場で正しく生きようとします。でも、いくら努力しても思ったほどの成果が現れない、期待した現実にならない、と感じる人がいます。
宇宙のため、地球のためと信じて行動したのにもかかわらず、自分の環境が良くならない。こう思っている人は大きな落とし穴にはまっています。正しい生き方をしたら、人生が良くなる、と思うのは大きな誤りなのです。正しくない生き方をすると現実がうまく展開しないのは確かですが、正しい生き方をしたからといって自分の現実が自分の欲望通りに展開するとは限らないのです。
正しい生き方をするのは正しい生き方をしていること自体に価値があるからであり、それによる報酬に価値があるわけではありません。結果が良くなろうとおかしくなろうと、とにかく正しい生き方をすることなのです(注:ここでは宇宙の御心に沿った生き方を正しい生き方と表現しています)。正しい生き方をすると宇宙の御心に沿った現実がやってきます。宇宙の御心の通りに現れた現実を「私の思った現実ではない」と否定している限り、まだ正しい生き方が確立されてはいないのです。願望が成就されないという理由だけで宇宙から遠ざかることはしないようにしましょう。
さて、今年も後半に突入ということは、毎年恒例の秋のワークショップの時期がやってきます。これまで、いつも富士五湖の近くで集中セミナーをやってきました。今年も富士山の気持ちを考えると何かしたいという思いはあるのですが、今年は厳しそうなので、10月の9〜11日の三日間だけにしようかなと考えています。11月1〜3日、あるいは11月21〜23日の三日間(あるいは二日間)は東京での集中セミナー、あるいは東京以外の地区で個人セッションを中心にしたワークショップなどをしようかなと考えています。まだ正式には決まっていませんが、7月と8月はその企画を進めたいと思いますので、皆さん方の方で何かアイデアがあれば教えてください。
また、東京以外の方でワークショップを希望する方がいれば、人数が集まれば出張に行きますので、希望者がいましたら連絡してください。個人セッションはホテルでもできますし、ワークショップは公民館などで提供している市民向けの会議室や和室でも十分です。あまり手間をかけないでやりたいので、わざわざ誰かが仕切ってやるというようなことは考えなくて良いです。
集中セミナーのテーマは「新たな地球、新たな日本」を骨子にしたもので、これまでの地球の流れから新たな地球の流れへと切り替えるワークをしたいと思います。いうまでもなく1999年、2000年と進むに従って地球のエネルギーが急速に高まり、私たちの意識の高まりも要求されています。宇宙からのメッセージでは地球の波動の高まりに比べ、人類の波動の高まりがかなり遅れており、遅れている人はいわゆる経験したくないことを経験しなければならないそうです。新しい波動の世界に向け、まずは自分の意識を本来の波動のレベルに高め、混乱を経験しないように調整します(Yuji)
一番初めの時、自分の体が浮かぶことができると感じられた途端、体が地上から少しずつ浮かび上がっていきました。その時の感覚や体の雰囲気がとてもリアルで、こうやって浮かぶのかと分かりました。
次からの冒険では必ず空を飛んでいきます。ある時、前にも会ったことがあるような子供と出会ってから、二人の子供を両手でつかんで空を飛んでいきました。子供が、悪い人たちがいる、というので、懲らしめにいこうとしたのでした。あるところにいくと、地上に銃をかまえたMIB風の男達がいて、私たちをみつけると攻撃してきました。私は光のエネルギーを放射して激戦を交えることになりました。と、私の背中のところに強烈なショックを感じ、そのまま意識が現実にゆっくりと戻ってきて、寝ている自分に戻ってきました。しばらく呆然としていたら、頭の中で電話が鳴って、受話器をとると「お前は何者だ」と言ってきました。えっと思っていろいろ考えていると、仲間が説明しているらしく、「そうか、そういうことか。分かった」と言って電話を切りました。ここで分かったのは、アストラルの世界にもルールがあり、勝手なことをしてはいけないということでした。このとき、アストラルの世界に行っても良いという正式な許可などをもらいました。なお悪人は子供の方でした。
それ以降も、時々、空を飛んでの冒険が何度かありました。あるときは明らかに別の惑星にいて、一人でその殺風景な光景を 見ていました。すると、突然、どこからか、そうだ、バルカンから来てこうなったのだ。同じことをやっている、という声が聞こえてきました。何となく、今の地球でも、以前の惑星と同じことをしていると感じました。
先日はかなり違う体験をしました。空気がまるで水のように感じられ、うまく動けなかったのです。また、二人の人がいるのもかかわらず、何を言っても通じませんでした。何となく、「これが三次元の世界なのかな」と思いました。そして別のところに行って確かめたのですが、やはり水の中を歩いているような感覚は同じでした。
こんな冒険を時々、しています。ただ、今のところ、自分の意思で自由にコントロールすることはできないため、さらに練習をする必要があります。皆さんも練習すればいろんな体験ができるようになりますよ。1回や2回の瞑想でうまくいかなかったからといって諦めるのではなく、根気よく練習を重ねていただきたいと思います。
ところで、病というと、「普段の行ないが悪いから病になる」と信じ、さらには「良くなると思えば治る」と平気で言う人がいます。しかし神ははっきりとこれを否定しています。病はそんな単純なものではなく、病になったときだけ良い行動をとったからといって健康になるというものではありません。にもかかわらず、病に陥っている人のすべてが間違った心の持ち主であるかのように判断している人がいると、さすがに宇宙も黙ってはいません。特に、病を自業自得であるかのように説明するのはあまりにも愛がないとのことです。
病は肉体と環境の波動の違いから生じるもので、遺伝的なものや周囲の環境にも大きく左右されます。生まれる前から決めてきている場合もあります。これを「前世のカルマ」と言う人がいるようですが、仮にそのようなエネルギーがあるとしても、その影響力は1割以下です。一番の大きな理由は、何かの気づきのために神や魂が仕組んだことであり、その意味が分からない限り病を克服したことになりません。ただ、意味といっても、単に病を経験することだけに意味のある場合もあります。日頃、精神的なことに関心を向けていなかったビジネスマンが入院した途端、精神的なことや自分の肉体に初めて関心を向ける場合もあります。したがって病をすべて悪のように評価してしまうのは、あまりにも単純すぎるといえます。
病には必ず何らかの気づきの意味があります。でもそれは本人と魂、神にしか分からないと思って構いません。一見、同じ病状のように見えても、意味は人によってまったく違う場合があります。最近の例では、泌尿器に疾患がある場合、相手の悪いところばかりに目を向けていないかどうか、生殖器に疾患がある場合、性に対しての認識が誤っていないかどうか、右手に疾患がある場合、進むべき方向性を正しく伝えているかどうかというアドバイスがありました。自分なりに考えてみてください。