1998/9(毎月1日発行)
(c)1998 Fujita

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1998年11月レポートから

生きていることを学んでいる人たち

最近、肉体の不調を訴える人が相次いでいます。地球の波動の急速な変化により、肉体にいろんな反応が起こっているようです。私も食べ物に対して変化が起こってきました。9月に入るころから体調が急におかしくなり、その後、食べ物に対して体調を乱すケースが多くなりました。食べ物によって消化器官が正しく機能しなかったりアレルギー的な症状が出るようになりました。それまでの私は基本的にはどんなものでも受け付け、体が拒否するということはなかったのですが。

11月になると忘年会や納会の時期となり、アルコールづけの日々を過ごす人も多いでしょう。いうまでもなくアルコールやカフェインはオーラを傷つけ、穴を開けたりブヨブヨにしてしまったりして、エネルギーワークを行なう人にとってはとても扱いの難しい嗜好品です。私は日本茶が大好きで毎日、何杯も飲んでいました。体調変化によりあきらめたところ、「やっとまともなものを飲むようになったか」という声が聞こえてきました。「好き」と「体に良い」はまったく別です。 (Yuji)


ただ生きることを学ぶ

私たちの人生の役割について、よく「地球に奉仕すること」とか「人を愛すること」とか言われます。私も初めのころ、つまりニューエイジに染まったころはそんなことを考えたこともありましたが、やっぱりおかしいと思い、今はそんなことはまったく考えていません。

宇宙が私にいつも述べているのは、「ただ生きているだけで良い」ということで、個人セッションを受けた人にも時々こういうことを言います。ところがこの意味はとても深く、「ただ好き勝手にしていればよい」というわけではありません。

役割だの使命だのというのは魂レベルの話であり、まだ魂と一体化していない人や魂を信じていない人、魂が分かっていない人には意味のないことです。しかし魂レベルから見れば、とにかく地球上に自分の肉体があるということだけで十分に満足しており、とても嬉しいことなのです。例えていえば(あまり良い例えではないけれども)、自分が自家用ヘリコプターを持っているようなもので、いくら中古でも、性能が悪くとも、見掛けが悪くとも、とにかく自家用ヘリコプター持っているということだけで自由に動き回ることができ、行動範囲が広がるでしょう。魂からみた肉体はまさにそうで、地球の三次元世界で活動できるとても素晴らしい乗り物なのです。そして私たち一人ひとりはその操縦士であり、ここで見たり聞いたりしたものをすべて魂に送り届けます。

したがって「ただ生きる」というのは「何があってもとにかく生きる、どんなにつらいことがあってもひたすら生きる」という意味であり、それは「肉体をトコトン生かす」という意味になります。まだ魂について実感が得られていない人は、まずは「ただひたすら生きる」ということこそ、唯一の使命と思って構いません。これは先月号のセントラルサンで説明した「準備段階」にあるものの役割でもあり、それによって生きる意思を強く養っていきます。

ただ生きる。これは生きることの喜びや嬉しさを感じることであり、これを体得すると地球上で生かされているという感じが強くなってきます。魂の役割だの使命だのが明らかにされるのはこの後であり、まず自分が生きていることの喜びを感じていない人には使命などが伝えられることはほとんどありません(私の経験上)。せいぜい「人を愛すること」と言われる程度ですが、本来、愛することは使命でも役割でもなく、人間として当たり前のことです。

1998年も年末が近づいて、いよいよ来年は1999年です。これを世紀末だとか終末だとか言っている人がいますが、そんなことはあり得ません。ノストラダムスでさえもそんなことは言っていません。さらに時代はずっと続くことが述べられています。ましてや大量の宇宙船がやってきて地球人を救うなんて計画もありません。ところがこれらを本当に信じて、全財産を注ぎ込んで、安全なところに引っ越そうとしている人がたくさんいるのです。本当に哀れとしか言いようがありません。私たちは現実を生きましょう。


思い込みで創られる世界

人は誰も自分の都合のよいように勝手に判断し、自分の思い込みで自分独自の世界を創っているということに気がついている人も多いと思われます。こっちはこっちで当たり前と思って話していたことが、相手はまったく別の意味に解釈し、それで自分の真実を創っていたという場合もあります。

私の場合、例えば、私は意図的に「次元」とか「高次元」「チャネリング」という言葉は使わないようにしており、ましてや「私は高次元とチャネリングしている」という表現は一度も使ったことがないのにもかかわらず、勝手にそう思い込んで、「藤田さんは高い次元とつながっているから」とか「高次元の存在とチャネリングしているから」と言う人がいてビックリしてしまいます。何を根拠にこういうことを言うのか、全く信じられません。ほかにも私のことを勝手に聖人・君子であるかのように勘違いして、他の聖人・君子といちいち比較して批判してくる人もいます。そういう人はいつかの時点でここから離れていくから気にはしていませんが、その人の宇宙観はどんな独断と偏見でできているかを考えると、あきれてしまいます。

結局、人間は皆、自分の思い込みで自分だけの世界を創っています。これは自分もそうですし、お互い様となります。自分のことをちゃんと分かってくれない、とか自分のことを全く違うように思っている、といってもそれは仕方がありません。そういうものなのです。この際、そういう現実をあっさりと受け入れましょう。

自分のことを正しく理解してもらうとか、ちゃんと分かってもらうということ自体が無理です。そもそも自分でも自分のことをよく知らないんですから、「本当の自分を分かっていない」と他人を責めても、意味のないことに気がつきます。「人それぞれ勝手に自分の思い込みで自分の世界を創っている」。これが真実であり、一人ひとりが自分の宇宙を創っているという意味です。

一人ひとりにアストラル体やメンタル体という体がありますが、さらに高次元の体も存在しており、銀河の体や宇宙の体もあります。これは一人ひとり個別のものであり、他の宇宙や他の銀河系で取得したエネルギーなどが入っています。そういう意味で、宇宙の法則でさえも一人ひとり現れが違うのです。

自分の宇宙観に合わせて相手の宇宙観を変えさせようとすると、とんでもないことになります。相手の宇宙はそれなりに根拠があり、エネルギー的にそうなっているのです。相手の宇宙観や思い込みを尊重することを学んでいきましょう。自分のことを誤解されるのはイヤだ、という気持ちは分かりますが、現実はそういうものです。お互い様です。勘違いして困るのは相手なので、自分は自分の真実に従って現実を生きましょう。


行動より思いが重要

日本人の行動形態として、「見た目だけ真似をする」ことが挙げられます。いわゆる格好だけ真似ることです。これは伝統的な「型から入る」というやり方がいつのまにか「型だけを真似る」ことで終わってしまっているものと思われます。

昔は、皆が自家用車を持てば自分も買う、皆が百科事典を持てば自分も買う、という時代がありましたが、今は、皆がパソコンを持てば自分も買う、というようなことかもしれません。表向きだけを皆に合わせるというやり方で満足し、「必要だから」というわけではないのです。本質的なことよりも見た目だけ真似して、分かったような感じになるのです。

日本人のこういう行動形態がいろんなところに影響を与えており、宇宙の教えが中々理解できないのもここに一因があると思われます。多くの人が「何をして良いのか、分からない」「これをするのが良いのかどうか分からない」と言ってきます。そして「〜〜すると良い」と誰かがアドバイスをすると、皆がそれを同じように真似します。

宇宙がいつも言うのは、「動機が何であるか」です。行動そのものではなく、動機が何であるか。どういう思いでそれを行なったのか。奉仕なのかエゴなのか、思いやりなのかお節介なのか、は動機によって決まることで、行動そのもので決まることではありません。

一つの例として、先日、ある人の個人セッションで複数の異性との交際についての質問がありました。宇宙は、新しい時代におけるやり方を意識し、それに向けて現在の日本人の価値観を修正していくという気持ちで行なうのなら必ずしも問題はないが、ただ感情にまかせ、罪悪感を持ちながら交際するのでは好ましくない、という説明がありました。要するに、複数の人と交際することが良いか悪いかではなく、その時の動機によって判断が異なるということです。

これはとても重要なポイントであり、ニューエイジに興味を持っている人の多くが、自分がしたいと思ったことは何をしても良い、恋愛もどんどん自由にすればよい、と他人にアドバイスしています(自分がそうしているかどうかは抜きにして、他人にだけはそうアドバイスしている)。しかし宇宙は、ただ感情にまかせた行動に走るのは必ずしも好ましくはないと述べています。また、仮に法律(一夫一婦制)を破ることがあれば、その段階で何らかの罪悪感を持つのが普通と言っており、本当に正しいという信念を持って行動することが必要と言っています。

同様のことはほかにもたくさん挙げられます。お金儲けをするにしても、借金するにしても、客をだましたような感じで営業の仕事をするにしても、とにかくその三次元的行動だけでは是非は判別できません。どういう動機でそれを行なったのか、ということが重要なのです。

パートナーを求める人たち

良きパートナーを求め、あらゆる手段を講じて期待して待っている人がいます。それこそ何かに取り憑かれたように未来のパートナーだけを追い求め、対象外と分かればまったく目も向けないという人がいます。ちょっと考えれば分かると思いますが、これまでの人類の歴史で、理想のパートナーを求めてうまく出会った人って、どのくらいいるのでしょうか。出会う異性すべてに対し、未来のパートナーかどうかすばやくチェックし、対象外だったらすぐに無視する。こんな生き方が本当に楽しいのでしょうか。

パートナーは必ずしもすべての人が決められているわけではなく、また必ずしも出会えるというわけでもありません。人間の妄想によってつくられた概念がかなり入っています。いま、この時代を生きている人の多くは新しい時代に向けての人たちが多く、こういう人は他人から束縛されたり、支配されるのが嫌いな人たちです。したがって、仮にパートナーを決めてきた人の場合、「お互いに束縛や支配の気持ちを持っている間は出会わないことにしておこう」と言って、わざと出会えないようにしていることがあります。

したがってこういう人たちは、パートナーに出会おうとしていろんな機会をつくっても、コントロールのエネルギーを身に着けているときには出会うことはできません。皆さんも、出会うべき人が決まっていたとしても、その人がまだ束縛の学びを終えていなくて、コントロールのエネルギーを強く持っていた場合、会いたいとは思わないでしょう。逆に、相手はすでに準備できていても、自分がコントロールのエネルギーを強く持っている場合は、やはり出会えません。

パートナーの質問に対し、宇宙は「まず異性の心が分かるように、相手の気持ちが理解できるように」というアドバイスをします。パートナーだけでなくすべての異性に同じように接する心を養いましょう。優しく素直な人でも一人でいる人がたくさんいます。何とかしてあげたいという気持ちはありますが、自分の問題ですので、自分で頑張ってください。

一人ひとりが何をしたいのか

それでは最後に私の方からお話をいたします。私は2000年前に人々と共に歩いて、お互いに話をし、人生について学び、心について理解し、そして一人ひとりが何のために生きているのか、何故自分は苦しむのか、といったいろんなことを分かち合ってきました。人々は貧しさや病で自分がつらい人間であると思い、それを救ってもらおうとして僧侶や私のところにやってきてお願いをしておりました。

人々の病を癒した場合に、それによってその人間がどれだけ意識的な成長を起こすことができたのか。貧しき者に金銭を与えたものの、どれだけ意識的な成長が進んだのであろうか。私はいろいろと悩みました。貧しき者にいくら金銭を与えても、彼らはほかの人に与えることはしませんでした。病で苦しむ者をいくら癒しても、他の者を苦しみから解き放とうとはしませんでした。

私は分かりました。それゆえに彼らは貧しく、病を患っているということが。病に苦しむのではなく、ほかの者の苦しみを解放させようとする気持ちがないから病を引き寄せるだけであり、貧しいから苦しむのではなく他の者の貧しき者を救おうとする気持ちがないから貧しいだけである。あなた方は自分の一つひとつの行動にどれだけの意味を見い出し、他の者のことを考えて行動しているのか。

貧しき者をそのまま無視しなさいとか、ほっとけというつもりはありません。なぜならば、そういう者も貧しい者と同じ心だからです。やはり貧しき者には自分の金銭を与えて、少しでも楽になってもらいたい。病に苦しむ者には、癒しの能力があればいくらでも癒して、心を解放させてあげたい。でも、貧しさから解き放たれ、病の苦しみから解き放たれたとしても、他の者の貧しさを救おうとせず、他の者の病を解放しようとしない者は結局、何も意識の成長が行なわれておらず、私が与えた金銭や癒しは何の効果もなかったことになってしまう。

人々の目覚めが次から次へと広がっていくのには何が大切なのか。人々の愛が次から次へと広がっていくためには何が必要なのか。その本質的なところをもっと突き詰めて考えてもらいたいと思っている。私は今の時代においては2000年前とはまったく違うやり方をしようと思っている。そしてもっと本質的なところ、もっともっと本当のことを少しでも人間に分かってもらいたいと思っている。

確かに人を愛することは一番、基本的なことであり、本質的なことである。でもそれの本当の意味を誰一人理解していない感じがする。その本当の意味をいかにしたら理解していただけるのか。私はそれを今、いろいろと考えている。皆さん方の会話の一つひとつ、十分に注意して聞いている。言葉の一つひとつ、感情の出し方の一つひとつ、厳密に調べて確認している。

どうしたら本当の愛が分かるんだろう。どういう表現をしたらそういう感情が出てくるのだろう。一人ひとり厳重に見ながら、私もいろいろと勉強している。皆さん方もただ教えてもらおうとして来るのではなく、できれば私と一緒にいろんなことを考えて、どういう風にしたら本当に理解し、広まっていくのか、考えてほしい。私を助けてほしい。一緒になっていろいろと教えてほしいと思っている。

決して私たちの方から、一方的に聞き出そうとか、ただ教えてもらおうとは思わないでほしい。皆、私の仲間ではないか。一緒に考えて、一緒に工夫して、一緒に努力していきたいと思っている。それではありがとうございました。


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