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2004/6/7■月曜交流会から

真実の愛をどうやって表現するか

@愛の表現の難しさ

私たちは光のハイアラーキーとしてお話をいたします。皆さん方の今の次元と空間において、一人ひとりが学ぶべきテーマと果たすべき役割があり、それらをうまく噛み合わせながら毎日の生活を体験しております。日常生活の一つひとつに意味があり、狙いがあり、思惑があり、そして、自分がまさにこの地球上でなすべき重大な使命があります。

しかし、それを意識的に捉えるのは非常に難しく、皆さん方の今の人間の知覚のレベルで理解できるものではありません。役割とか使命、そういう言葉を聞くと多くの人が何か特別な思いを抱き、いかにも自分の地球上での使命が何であるのか、自分は何のためにこの地球に来たのか、まさにそこに意識を向けて探り出そうとします。

しかし一般に皆さんがこの地球上にやってきた使命とか、目的はそういう言葉で表現できるものではありません。単純にこれをするためとか、これをなすべき、あるいは自分が本当に必要と感じてやってきた、そういう言葉で表現できるものではなく、もっと神のレベルの意志が入っており、宇宙全体の中でこの地球が行なうべき役割があり、この地球が行なうべき役割の中で自分の持っている波動があり、自分の持っている波動と地球上での地球の働きを加味して、自分の役割が与えられております。

したがって、一人ひとりの役割とか、使命とかを見つける場合、あくまでもこの地球が宇宙においてどういう役割をなすのか、まずこれを理解しない限りは自分の使命は見えてはきません。多くの人が人を愛するために、人を癒すために、そういう表現で使命を捉えている場合があります。

確かにそうですが、それは誰か特定の人が行なうべきものではなく、人間として当然行なうべきテーマであり、人間として生を受けた以上はすべての人が身に付けなければいけません。人を愛し、癒すこと、これは人間が当然行なうべきものであり、自分だけが、あるいはライトワーカーだけが、ヒーラーだけがという特定の人に与えられたメッセージではありません。

しかし皆さん方の概念や言葉で情報を引き出そうとする時、どうしても使命は他を愛すること、愛を身に付けること、そういう言葉でしか得ることができないのです。そのためについ、人間として本質的に行なうべきことをあたかも自分だけの役割であるかのように受け取ってしまったり、自分だけの使命であるかのように感じてしまう場合があるのです。

しかし、他を許し、認め、愛を行なうのは人間としての基本的な条件であり、自分だけの役割とか使命ではありません。したがって、皆さん方は先ず人間として本質的に身に付けなければならないことを身に付ける必要があります。人間として他の人間性を認め、それらを愛していく、他の人間を愛するというのはとても重要なことであり、自分を愛することがその出発点になります。

自分のすべてを愛する。自分の身振り、外見、能力、性格、自分のすべてをまず自分が受け入れ、愛すること、これがすべての出発点になります。他を愛しなさい、他を愛すること、いろんな表現が取られておりますが、一般に他を愛しなさいとか、人を愛しなさいという言葉自体に愛が入っていない場合があります。

他人に対してただ杓子定規にそういう言葉を使ったり、いかにも自分が精神世界の最前線にいるような感じで他に愛を説く人がおります。しかしそういう人はただ知識を表現しているだけであり、愛を身に付けているかどうかは別問題になります。愛を身に付けなさいと口に出すのではなく、自分が愛を実践していく、愛を表現していく、これが重要です。

愛を表現するということは、ただ単に私はあなたを愛していますとか、私は人類を愛しているという言葉を発するのではなく、行動を心から行なうことになります。愛するという表現を使わず、愛しているという言葉を使わずに愛を行なっていく、まずはこれが出発点になります。私はあなたを愛している、こういう言葉がいかに安っぽいものか、愛するという言葉や表現ができないのに愛しているという言葉を使ってあたかも正当化している感じがします。

愛するということがどういうことなのかも分からずにただ愛している、そういう言葉を使うことにより、相手を安心させ、相手の信頼を得ようとする、しかし本当に愛するというのは愛しているという言葉では表現できるものではありません。その人がどのような過失を行ない、どのように自分にとって否定的な言動を取ったとしてもその自由意志を尊重し、その人の行動を認めていく、これが愛している条件になります。

しかし多くの人が愛について迷い、悩むでしょう。どこまで他人を許すのが愛なのか、殺人、暴力的な行為、残虐な行為、そういった現象が目の前で繰り広げられていても自由意志を尊重して、そのままにしておくのか、そういう言動を目にした時に皆さん方の心が痛み、愛とは何なのか、自由意志とは何なのか、心の葛藤が始まるでしょう。

愛はそういう葛藤を何度も何度も経験し、本当に人のために何が必要なのか、本当に自分はどうすべきなのか、それがはっきりと分かった人が愛を具現化していると言えるでしょう。したがって、目の前で少し自分に対して否定的な言葉を発し、その人の自由意志が他人を犯したとしても、そこでむきになったり感情的な行動を取っていたのであれば実際はまだ愛を理解していない範囲と思われます。

愛を本当に具現化し理解する、言葉で表現するのは簡単ですが、態度で表現するのはとても難しいものです。では目の前で残虐な行為、非人間的な行為が行なわれていた時、自分はどう対処し、自分の愛をどのように表現していくのか、ここで大きな勘違いが多くの人に行なわれます。

多くの人はどういう行動を取れば愛であり、どういう言動が正解なのか、答えなのか、それを聞き出そうとするのです。そして誰かがある素晴らしい行為を行なった時、自分も同じ行為を行なうことによってあたかも自分が愛を身に付けたかのように勘違いする場合もあるのです。

その人の行為が愛なのかそうでないのかは、必ずしも言動で決まるものではありません。あくまでもその時の自分の心がどういう状態になっているのか、自分の心に愛があるのかどうか、これが基準になります。目の前で残虐な行為が行なわれた、素晴らしい人は以前こういう風に行動を取った、だから私も同じような行動を取ろう、こう思って自分の知識の中で愛と思われる言動を取ったとしても、これは愛ではありません。

以前に素晴らしい人がとった言動、それと同じことをすることが自分が愛を行なったという証拠になり、自分はあたかも愛を行なったと多くの人に評価してもらえる、自分は愛を行なったという証をここで表現できた、こういう気持ちから行なわれた行動は愛とは程遠いものがあります。

本当に目の前の人を考えた行動ではなく、自分の体裁や自分の外見を考えての行動であり、愛の微塵も入っておりません。あくまでも愛は今目の前にいる人が自分の言葉によってどこまで救われ、光が入り、その人の成長に役立つのか、これが基準になります。

あくまでもその人が自分の言動によってどう変化し、少しでも光に目覚めたのか、本当にその人のことを考えた末に発揮されるものが愛になります。その人のことではなく、こういう時にはこうすれば良いんだ、愛のある人は通常こうするから自分もこうしよう、こういう理屈によって行動に出てきたものには、何一つ愛は入っておりません。

したがって、その時、その時、愛のある行動を取ったのかどうかは三次元的な言動で評価されるものではなく、あくまでもその時の心の動きがどうであったのか、自分はどれだけ相手の人のことを考えていたのか、これが基準になります。これは周りから見て分からない場合があります。番分かるのは本人になります。

自分が何か否定的な言動と思われるものを目の当たりにした、自由意志をその人が発揮しているかのように感じ、その人の自由意志を尊重し、ひどい目に合っている人、辛い目に合っている人をそのままにしておいた、あるいはそれに対して何らかの戒めの言葉や注意を相手に与えた、その時に注意された人、何か言葉を与えられた人、その人がそれによって自分の言動にいかに意識が向き、自分の行ないが目の前の人にいかに苦痛を与えていたかどうか、自分の言動が相手の成長をいかに止めていたのか、それに気付いたのであれば、それらの注意は愛のある注意となるでしょう。

しかし、通り一遍の単なる注意、自分の頭の中で知っている愛と思われる言動をただとっても、相手が何一つ心で感ずるものではなく、余計にむかついてきたり、注意されたことに腹を立ててしまう、これは結果的に愛のエネルギーがどこにも入っていないことになります。

注意してその人に何らかの改善を願ったとしても、自分に愛がない時には相手にも響くことはないのです。何でも注意すればよいというものではなく、心から愛を持って接した時の注意の仕方、愛がなく、ただ常識だから、ひどいやつだから、とんでもない状況だから、それだけで行なった場合には、何一つ愛と関係ない場合があるのです。

自分の言動の一つひとつに本当に愛が入っているのかどうか、それが愛なのかどうか、それは自分が一番分かっており、またそれを言われた当人の心で分かります。しかし当事者でない人は中々それらを理解することはできません。

当事者以外はただその現場にいたとしても、客観的に見ている人が多く、自分のことと思っていない場合があり、そこにおいて、愛を感ずることはほとんどありえないのです。所詮は人事、自分には関係ない、面白そう、そういう気持ちで物事を見ている人には愛は感じられてきません。

本当に自分が何かしてあげたい、可哀想、このままではとんでもないことが起こる、そう思っていても自分は何一つ行動に移せなかった、その時に誰かがアドバイスをして、その人の愚かさに気付かせることができた、その時に自分もものすごく感激したり、まるで自分が注意されたかのように自分自身が癒される場合もあります。

こういう場合は愛はある程度感ずることができるでしょう。やはり何とかしてあげたい、助けてあげたい、こういう気持ちがあって周りにいた人の場合は、少しでも愛を感ずる場合があります。しかし単に面白そうだから除いてやる、この先どうなるか見届けてやる、そういう気持ちでただ傍観している人には何一つ愛は感じられることはないでしょう。

愛という言葉を口に出すのはとても陳腐的なものがあり、安っぽく、いかにもその辺のニューエイジ的な流れとまったく同じ印象を与えてしまいますが、実際には本当に愛し、他を許すというのは人間にとって最高の行ないとも言えます。本当に相手の自由意志を許し、認めながらも確実にその人の弱さを暴露させ、その人がいかに自分が愚かであるかということに目覚めさせ、理解を成させ、人間が人間にすべきことを気付かせていくのです。これが本当の愛になります。

ただ優しく、ただ暖かく、何でもかんでも与えてしまうのは愛ではありません。何でも相手が言うなりになってしまったり、すべて相手に合わせてしまうのは愛ではなく、むしろ愚かな行為であり、自分の心の弱さを表現しているだけに過ぎません。愛は心の強さが必要です。愛は必要なときには必ず発揮せねばならないものであり、そのまま見過ごして通り抜けることのできないものです。

本当に辛い人、困っている人、弱い人が目の前にいた時に何とかして助けてあげたい、何とかして力になってやりたい、こういう気持ちがないと愛ではありません。自分がいろんな局面に出会った時、どういう風に物事を考え、行動に移していくか、それを本当に理解する必要があります。

愛について語るとどうしても通り一遍の表現になってしまい、中々心で理解するのが難しいテーマになります。他を愛する、他を認める、自由意志を尊重する、いくらでも言葉では表現を取ることができます。しかしその真意を伝えるのはとても難しいものがあります。

一人ひとり愛について思いが異なり、また愛を表現する波動も異なり、自分の行動に移せる愛の仕方も違っているからです。自分は自分にとっての愛の表現があり、自分にとっての愛の感じ方があります。自分はどういう愛を感じ、受け取り、発揮できるでしょうか。

自分にとってどういう愛が一番ベストな愛でしょう。皆さん方の手にしているクリスタルをそのままハートチャクラの所にもっていってください。ハートチャクラから皆さん方に自分の愛がどういう愛であるのか、自分はどういう愛と反応するのか、教えてくれるでしょう。自分にとって愛とは何であったのか、自分はどういう愛を表現できるのか、ハートから聞いてみてください。


Kiyoshiさんのハートがあなたにメッセージを与えております。あなたの愛はこれまでの人生において少しずつ、少しずつ研ぎ澄まされ、むしろ愛とは何であるのかを一生懸命考え、自分なりの解釈の仕方ができあがっておりました。単に優しく、暖かく接することが愛ではない、そこまでは理解されておりました。でも具体的に自分は何をすれば良いのか、自分はどういう愛を発揮できるのか、どうしても確信がつかめないままになっておりました。あなたのハートがあなたに伝えております。あなたにとっての愛は、相手に安心感を与え、安らぎを与え、そのままで良いということをいかに伝えていくのか、人間が本来の人間性を表現する、苦しい時に苦しいと表現する、楽しい時に楽しいと表現する、何かを求めている時、何かを求めていると表現する、その素直さ、その素直さを開放させる、あなたは他の人のその素直さを開放させるエネルギーを持っています。あなたの素朴で純粋な表現の仕方、ただあるがまま示していく、そうすることによってその人の本来の素直さを表に出させる能力があります。これがあなたにとっての愛になります。本来の素直さをその人が表現できるように導いていく、本来の素直さを気付かせていく、素直さを開放させていく、これがあなたの愛です。あなたはただシンプルに素朴に素直に、自分の思いを表現するだけであなたの目の前の人は素直さに気付き、自分の素直さを解放させることができます。純粋に、素直に、その人の本来の素直さを開放させていく、その自分の愛を発揮できるようにもっていってください。

Rihokoさんのハートがあなたに伝えております。あなたのハートが一生懸命解放をあなたにもたらし、あなた自身が解放されることによってあなたの周りの人も解放されていく、自分が何らかの束縛から解放され、自由に表現することによって周りの人も自由に表現できるようになっていく、あなたの言動が周りの人にそのまま影響を与えていく、これがあなたの特徴になっています。では愛という自分の本質を考えた時、他の人にどういう愛を具現化できるのか。自分が開放され、自分が自由に伸び伸びと行動すると、周りの人も自由に伸び伸びと行動していく、愛においては、あなた自身が他の人に勇気を与え、他の人が積極的に行動できるような態度を接していくと、他の人が次々と自由に行動できるような現象をつくり出していきます。あなたにとっての愛は、自分の言動によって他の人がいろんな言動を取れるようになること、自分の言動が他の人を解放させること、これがあなた自身の愛になります。これは自分の頭の中では愛とは思わないでしょう。他の人もそれを愛とは気付かないでしょう。でも宇宙から見た時、これはとても大切な愛なのです。自分を開放させることが他人を解放させていく、自分が自由に束縛から逃れることによって他の人が束縛から逃れるということに気が付いていく、これも立派な愛なのです。こういう愛があるということをまだ地球の人々は気が付いておりません。地球の人々はただ暖かく、優しく、見返りの得られるものが愛と思っているからです。愛はそういうものではありません。そういう表現では行なえないもの、Rihokoさんのようにただ自分は自分の心のあるがままに解放をさせていく、これ自体が他の人の解放を促し、他の人がそれに気付いていくのです。こういう愛があり、あなたはそういう愛を表現できること、まずそれを信じて具現化できるようにしていってください。

Namikoさんのハートがあなたに伝えております。宇宙の偉大なるマスターたちがあなたのハートを通じていろんな愛のあり方を教えようとしております。宇宙にはいろんなタイプの愛があり、まだまだこの地球上では表現できない愛があります。例えば、他人の言動を見てとても気になる、とても許しておけない、このままでは気が済まない、こういう思いを抱くことがあります。その人のためにこういったことを言って注意してあげる、あるいはこうアドバイスすることによってその人は早く成長する、そう思ってアドバイスを与える場合があるでしょう。そして本人がそれに気付き、本当にその言動によって救われる場合もあります。宇宙にはいろんな愛があり、そういう相手の成長を早くさせるために言葉を取って気付かせる場合もあります。しかし宇宙にはとても面白く、あえてその場何も発することなく、何も注意することなく、まったく気が付くこともなく、そのままにしておく愛もあります。つまり三次元的な言動が愛かどうかを決めるのではなく、その時自分はどういう気持ちを持っているのか、注意してあげた方がその人の役に立つ、その人のためになる、そう思った場合、確かにそれは愛になるでしょう。しかし何も言わなくてもその人が自分で気が付き、いつか必ず自分で乗り越え、自分の力で乗り越えていく、それをただ信じてそのままにしておく、こういう気持ちでそのままにしておいた場合、やはりこれもとても素晴らしい愛なのです。無関心でそのままにしておく場合と、本当に相手の可能性を信じてあえてそのままに黙っておく場合、無関心の場合には愛がないでしょう。相手の可能性を信じてそのままにしておいた場合、愛のある行動になります。したがって、三次元的な言動ではなく、その時の自分の気持ちがどうであったのか、自分は相手のことをどのように考え、相手の可能性を信じ、相手のパワーを認めているのかどうか、これが愛であるかどうかを決めていきます。あなたのハートには宇宙のいろんなマスターたちがアドバイスを与え、いろんなことを気付かせるようにもっていきます。そのためにあなたのハートで時々いろんな混乱を生ずる場合があります。こういう時にはどうしたら良いのだろう、その時、その時で自分はどうしたら良いのかを悩み、考えてしまうケースがあります。これはむしろあなた自身がその時にどういう気持ちを抱き、どう愛を表現していくのか、それに気付き理解してもらいたいために、あなたにいろんな情報を与えていると思っておいてください。つまりその時にハートにやってくるいろんなメッセージは、ああした方が良い、こうした方が良いというメッセージではなく、あなたはそれらの情報を元にして自分で考えるのです。今自分は何をすべきなのか、これをこのまま言動に移すのが愛なのかどうか、それとも自分はあえて知らん振りして黙っておくのか、あなたに考えてもらいたいために、いろんな言動を工夫してもらいたいのです。あなたに与えたメッセージをそのまま言動に移すのではなく、少し自分で考えてみる、そして自分にとってどれが一番相手のためになるのか、相手が一番成長するためには自分はどうするのか、それを考えてもらいたいのです。そのためにあえていろんな方面からアドバイスが流れてきたり、あなたにいろんな思いを伝えているのです。いろんな思いや情報に惑わされず、自分はそれらの情報をどう解釈し、自分は自分のために一番どれを行動に移すのかを考えていく、そういうエネルギーとの使い方を身に付けるようにしてみてください。

Seikoさんのハートはあなたに伝えております。あなたのハートにおいて、あなたが表現すべき愛、あなたが言動に移すべき愛があります。あなたは他人の心を感じ、自分の愛を少しでも表現したいと思う時、つい心で思ったことと三次元の言動で異なってしまう場合があります。折角心の中では他人のことを思い、他人を本当に優しく包んであげたいと思っても、そういう言動が取れない、言葉を与えてあげたいと思っても、口から出てこない、優しく包んであげたいと思っても行動に移せない、あなたの心でまた矛盾が起こり、葛藤が起こり、ついには自分自身を自分で責めてしまう思いがあります。これがあなたの愛であり、あなた自身は他人を思い、またそうならない自分をも感じております。あなたは十分に愛に気付き、愛を感じているのです。ただそれをまだ三次元の言動で表現できない、つい自分を責めてしまうでしょう。しかしあなたは自分を責める必要はありません。あなたは十分にそこまで愛を理解し、愛を表現しようとしているからです。愛の大事さを理解し、相手に対して愛が必要だということの理解をしています。単に自分の思いが言動に現れてこないのは、今までの意識がそうつくり上げていたと理解しておいてください。単に愛するという言動をとっていなかった、そのためにどうしても恥ずかしさや未熟さ、自分にとって慣れていないという思いが先立ち、三次元の言動を拒んでしまうのです。これはあなた自身の問題でもなく、またあなたが単純に慣れていないというだけの現象だけでもありません。単に自分が行動していなかった、単にそういう言動をとっていなかった、それだけの問題です。それがいつのまにか自分は表現できないものと勘違いしてしまったり、慣れていないという思いを抱かせているに過ぎません。実際には今すぐにでもあなたは他を愛し、そういう言動を十分に取ることができます。単に思っているだけで終わるのではなく、実際にもう今すぐに言動を取っていく、行動に現わしていく、この思いだけが必要です。思って何もできなかった自分をもう過去のものとし、もう今から自分はすぐにでも言動に現わすことができ、必要だと思ったらその人を本当に愛してあげる、その人にとって心が安心できる言葉を与えていく、その人にとって心が開放される言動をとっていく、その人にとって必要と思われることをどんどん行動に移していく、こういう実際の行動が必要になります。今までできなかったのではなく、単にしなかっただけ、できない理由があるわけではなく、単にしなかっただけのこと、今すぐにでもできるということをはっきりと理解する必要があります。できない理由があったわけではありません。単にしなかっただけのことです。自分を愛せなくさせている理由は何一つありません。すぐにでも人を愛することができること、それを信じて次々と他を愛する言動を取るようにしていってください。


皆さん方が今これまでの自分から逃れ、新しい自分として他を愛することができるように今クリスタルが皆さんのハートに新しいパワーを与えていきます。クリスタルから新しいパワーを感じ、ハートに送り込み、自分はもっともっと他を愛する言動をすぐに取れるようにパワーを入れていってください。

そして自分で心に誓ってください。もうこれまでとは違って自分はどんどん他を愛していけること、今すぐにでも他を愛すること、自分のハートに誓ってください。他を愛するというのは一見難しい行動のように思われがちです。実際には愛するという行為そのものは難しくはありません。

ただ愛を難しくさせている思いがどこかにつくられております。自分は他を愛せないかのように、愛することが難しいかのように思わせている波動があるのです。もうその波動は完全に心から取り去ってしまいましょう。愛を難しくさせている波動は何一つありません。すぐにでも他を愛せること、それを信じてこれからの人間生活を送れるようにしていってください。それでは少し休憩を取ります。ありがとうございました。


A新しいものと旧いもの

光のハイアラーキーとしてお話をいたします。今日本においていろんなエネルギーが流れてきており、新しい時代に移り変わるための波動と、これまでの流れを持続させようとする波動がぶつかり、お互いに壮絶な現象をつくり出しております。

新しい流れに入ろうとする波動は、これまでの人間の意識を根本から変えさせ、まったく新しい価値観で社会をつくろうとしていきます。しかしこれまでの波動にすがるものは、これまでの常識、これまでのルールで今後も持続させようとし、新しい流れを受け入れることができません。

この新しい波動と、これまでの波動が巧妙に衝突し、ぶつかり、皆さん方の意識にも影響を与えております。皆さん方の心の中一つひとつに新しい流れに入ろうとする思いと、これまでの自分を大切にしようとする思いがあり、これらが衝突し、ぶつかり、心の葛藤を生み出しております。

心の中では新しい流れに入り、今までの自分と訣別し、新しい自分で、新しい流れでやっていきたいという思いがある一方で、今までの自分の執着的なところ、今までの自分のままで変わることを恐れていたり、今までの流れだけで繰り返してやっていきたいという思いがあり、新しい自分に変わることを拒んでいる波動があります。

多くの人はこの二つの波動が葛藤し、ぶつかり合い、毎日の現実を進めております。気持ち的には新しい波動に切り替わりたいという思いがあっても、現実を見ると今までの自分をつい表に出し、不安や恐れからこれまでのやり方をつい延長させていく、こういうケースがあります。

新しい流れに入るためには、古いものを捨て去り、今までの概念を訣別する強さが必要になります。新しいものをつくる時、新しい面に対する強さだけが注目され、そこに目が行きがちですが、実際には古いものとの訣別、古いものを手放すという強さの方がもっと強いものがあります。

心を鬼にして今までの自分を捨てていく、今までの自分と訣別する、古き自分をもう見捨ててしまう、この強さこそが一番重要な力になります。確かに過去よりは未来に目を向け、今後自分がどういう風な自分に変わっていくのか、何を求めているのか、こういう気持ちは確かに重要でしょう。しかし、今までの執着にすがったままで、自分の弱い面だけを前提にして、今後を生きようとしても、実際には自分の流れを阻害させてしまい、中々うまくは進みません。

今までの自分をしっかりと認識し、もう捨てていく、新しい自分に完全に切り替えていく、こういう思いこそが必要になります。今はその思いがとても必要な時期であり、重要な時期になっております。新しい波動が次々とやってきても、中々変われない人がたくさんおります。

新しいツール、新しい考え方、新しい概念、新しい人間、こういったものがたくさん社会に現れてきても、中々うまく現実に染まってこないのは、今までのツール、今までの考え方、今までの概念がそれを拒んでいるのです。今までの概念や考え方に固執せず、思い切って捨て去り、新しいものを迎い入れていく、是非この気持ちをつくり出せるようにしていってください。

多くの人は、新しいものを受け入れ、古いものを捨てるといった時に、どうしても恐怖を伴い、またせっかくこれまでやってきた大事なもの、大切なものをも捨ててしまう感じを受けてしまう場合があります。日本人の場合、長い間受け継がれてきた伝統、素直さや、素朴さ、純粋さをも手放してしまう思いがあります。

しかし、純粋さや素朴さ、自分の本質的なものはそれは古いものという概念ではなく、それは本質的なものであり、捨て去るとか、入れ替えるとかいう類のものではありません。あくまでも古い考え、古いツールを捨て去る、素直さや物を大切にする気持ち、人を思う気持ちは古い考えや、古い概念ではありません。それは人間としての必要なものです。

何が人間として必要なもので、何が古いものなのか、この見分けが付いていない人がたくさんおります。老人を思う気持ち、古きもの、大切なものをずっと使い続ける、これ自身は古い考えではなく、物を大切にするとても尊い気持ちになります。

あくまでも古いものにこだわらないというのは、昔の習慣や制度、慣わし、島国根性的な考え、自分だけにあてはまる考え、こういったものにこだわることに言っているだけであり、心の尊さや、物を思う大切さについては古いことではありません。この辺をしっかりと見極め、自分は新しいものをどのようにして受け入れていくのか、自分にとっての古きものを手放し、いかに新しいものを心の中にもってくるのか、そういったことをしっかりと理解して、これからの時代をつくり上げていくようにしていってください、それではここまでにいたします。ありがとうございました。


(c)2004 CentralSun
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