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2005/4/4■月曜交流会から

他人に合わせた生き方を終わらせる

@どういう観点で人生を築くか

私たちは光のハイアラーキーとしてお話をいたします。今日は新しい年度に入って皆さん方のエネルギーも少し変化してきており、日本の国全体の波動が新たなる波動へと向っております。日本という国はこの春の時期が一番始まりの時期にふさわしい波動になっており、これまでの波動を新たなる波動に切り替えるのに一番良い時期になっています。

そして社会の流れに合わせて一人ひとりも変化していく、社会の変化に自分を合わせやすい状況にもなっています。この時期に合わせて自分自身を新たなる波動へと変えていく、今年はどういう波動の中に入っていくのか、今年はどういう観点から自分の人生をつくり上げていくのか、そういったことを考えるのにとても良い時期になっています。

今年一年何を体験するのか。今年のテーマになっているものが何であるのか。人によってはもうすべて決まっていてその流れにただ合わせていく、あるいはある程度決められた選択肢の中で自分の好みに応じて選んでいく、そういろいろ考えている人がいるかもしれません。しかしこの四月の変化の時期は自分の進むべき道を自分で選ぶのにもとても良い時期になっています。

自分の意志に従って自分が選んでいく、今後の大きな流れを自分の手で切り替えていく、そういうことを行なうのにもとても良い時期になっています。この時期を逃すとあとはただ流れに任せて歩んでいく、あるいは決められた方針に従ってただ進んでいく、そういう波動がどんどん強くなってきて自分の意志が中々うまく反映されなくなっていきます。

したがって、今この時期において自分のやりたいことは何であるのか、自分は今後どういう風に道を歩んでいきたいのか、この意志がとても重要な時期でもあります。是非とも今年中にやっておきたいこと、今年こそこれをやりたいと思っているもの、是非これを達成したい、もしそういったものが頭にあるのであれば今この時期にそれを明確にマインドの中に焼付け、そして実行できるようにセットしておく、今の時期はそういったことが確実に実行しやすい時期になっています。

今まで毎年やろうやろうと思っても結果的に時間がないとか、お金がないとかでできなかったこと、いつかはやろうと思っておいてそのまま先延ばしにしてきたもの、そういったものがあるのであれば今この時期にこそそれをはっきりと実行できるように強い意志を持ち、そしてプランしていく、是非それを行なうようにしてみてください。

日本人の一人ひとりの意志や思い、感情的なもの、この動きを見るととても面白いことが分かってきます。そもそも自分の思いというのは何であるのか、自分には本当に自分の思いがあるのであろうか。今まで勉強して身に付けてきた常識や社会理念、人間としてあるべき行動、大人としての自覚ある行動、こういったことが頭の中に入っており、どういう場面ではどう対処する、どういう風に言われたらどう答える、こういったことが自動的に自分の頭の中で理解されております。

初めての人と会おうが親しい人と会おうが、だいたい自分の頭の中にある行動の範囲内で済ますことができます。それは自分の本当の姿なのかどうか、結局頭の中で描いているものは自分自身がそこにいようがいまいが社会理念や常識、大人としての行動、そういう基準でつくられた一つのパタンであり、必ずしも自分本来の個性のある行動ではありません。

自分の頭の中にある行動、これは本当に自分の個性ある行動であるのかどうか、むしろ逆に言うと頭の中で行動しようと思っているものは一般に個性を無くした行動とも言えます。とりあえず相手からおかしく思われないようにする、相手から変に思われない態度を取る、目立たない態度、悪く思われない態度、そういう風な観点でつくられた行動パタンであるために一般に周りの人から見て目立たない、ごく普通の平凡な姿、そのように映る行動パタンが出来上がっております。

そしてそれは個性を無くした行動パタンになっており、自分自身の本来のもの、本来の個性が自分でも分からなくなっている状況と言えるでしょう。今の日本の人々一人ひとりを見た時、個性と言えるものが何であるのか、確かに話し方は異なり、説明の仕方、表現の仕方は一人ひとり違うでしょう。さらに着る物の好みや自分のやりたいこと、確かに一人ひとり違っております。

でもそれは個性というのにはあまりにも一般的なものであり、ごく普通に捉えた単なる違いに過ぎません。本当のその人ならではの個性、その人自身をアピールするくらいの個性といったものがどこに出てくるでしょうか。単なる好みの差であっても個性というレベルにまで強くかもし出しているものが中々見られない状況と言えます。

これが他の国に行くと一人ひとりはより強い強烈な個性を示す場合があります。それは単なるオーバーな話し方とか表現の複雑さとかいう意味ではなく、本当に自分のやりたいこと、信念、信じているもの、行動の仕方、そういったところで知ることができます。一度そうと決めたことはとことんやり尽くしてみる、一度自分の中で信念として築かれたものをそれを徹底的に追求してさらに深くしていく、そういった意味での強い個性がつくられております。

それに比べると日本人の場合には単なる好みの差、単なる好き嫌いの差からくるものであり、個性というぐらいに強く内面的なものをつくり上げているものはほとんどありません。好みの差とかいうものは結局はその時々の流行で変わってしまったり、社会の流れに応じて変化してしまうものであり、自分自身の強い個性というところには育っていないものがたくさんあります。本当の個性というものは社会の流れや流行、雰囲気的なもの、あるいは他からいろいろ言われたとしても変わることのない自分の中で確立された一つの波動と言えます。


それほど強い個性をもっているもの、他の国ではたくさん見ることができます。いわゆる信念に近いくらいの自分の個性となって多くの人に見られることがあります。そういう観点から見ると日本人の場合にはまだ個性というレベルに育っておらず、好みの差、単なる感性的な違い、そういう程度で一人ひとりの違いを論ずるケースが普通になっています。

では日本のすべてがそういう状態なのでしょうか。少なくとも明治以前の日本の文化においてはとても個性豊かな時代になっていました。着る物、一人ひとりあでやかな着物を着ており、身に付けるものや興味あるもの、勉強の方向性、農業に携わるものや自然に携わるもの、貨幣に携わるもの、それぞれ自分の好みがあり、表現の仕方、とてもユニークなものがありました。

しかし明治になりイギリスの文明を取り入れるに従い、何故か個性をなくす方向へ、個性をなくすことが文明化であり、むしろ皆が同じ知識を手にし、同じレベルに達する、個性をなくして共通的なものを身に付ける、こういう波動を次々と取り入れることにより個性を失わせる傾向へと進むことになりました。

そしてすべての人間を同じように教育していく、同じように進んでいく、同じでなければならない、こういう波動がより鮮明に強くなり、そして同じでなければ非難する、排除する、この傾向がより一層強く流れるようになっていきました。そしてそれが諸外国にも影響をもたらすようになり、同じような日本人の姿につくり変えていく、こういう傾向が一層強まるようになっていきました。

確かに古代から日本人は同じものを好み、同じ波動を集めていく、こういう傾向は確かにもっていました。しかしその中でもある程度一人ひとりの個性は認めており、尊重しており、違いは違いとして許しておく状況がありました。しかし明治以降の政策によって違いを違いとして認めることができない状態に進んでいき段々個性を許さない流れへと入っていきました。

そしていろんな国際的な戦争を経験するに従い軍隊的な意識が日本全体を覆い始め、確立された一つの方向へと日本を導くようになっていきました。今、その戦争時のいろんな波動が一見離れ、平和な穏やかな時代を過ごしているかのように感じているかもしれません。しかし実際の意識という観点から見た時、今の日本においても戦争中と同じような画一された波動が日本全体を覆っております。

まるで皆が同じでなければならない、違いを否定する、結果的に個性を否定し、同じでなければならないという波動がとても強く蔓延しております。そのために個性を持った人々、個性ある人々が育ちにくい環境になっています。今のこの日本の波動を変えるためには、個性のある一人ひとりの独自の波動をもっともっと尊重していく必要があります。 画一的な教育や社会は必ずどこかで崩壊が訪れてきます。宇宙の仕組みそのものが画一的なものを望んでおらず、個性あるもの、違いあるものを望んでいるからです。そのために画一化させようとする波動は必ずどこかでつまずき、破綻し、そして最後は消えていきます。

したがって、もし自分の心の中にそういう画一的もの、決まりきったものが入っているのであればそれはどこかで手放す必要があること、そういったものを手放して本来の個性のある自分の姿を確立させ、それが皆さん方にとって今とても重要な流れと言えます。今年一年、じゃ、自分の流れを見る時、自分の個性を伸ばす興味あるもの、やりたいことがどれだけ用意されているかどうか、自分の頭の中で今年是非とも身に付け完成させようとしているものの中で自分の個性に繋がるものがどれだけあるのか、そういったことを考えてみると自分自身の流れが本当に自分の流れになっているのか、それともまだ頭で考えたレベルであり、本当に宇宙が望んでいるものと合っているかどうかを見極めることができるようになっていきます。

個性という観点で見る時、確かに日本人全体で見るとまだまだ世界的に個性が見受けられないレベルと言えるでしょう。しかしそれでも年々日本人自身も変化してきており、いつまで経っても何年前、何十年前と同じという状態ではありません。今の若い人々は個性を発揮させ、それまで体験してきた人々の言うことにそのまま合わせるということもできなくなってきています。

自分のために自分の個性を大事にする、自分の信念を尊重する、自分のやりたいこと、自分の望んでいることを行動に移そうとする、こういう人がどんどん増えてきています。したがって、皆さん方の年代に達しているものはむしろ若いそういう個性を持った人々が自分たちのやろうとしてることが実現できるようにサポートする、個性を発揮する生き方を認めてあげ、よりよく個性が発展するように手伝っていく、こういった気持ちが重要になってきます。

どうしてもこれまでの教育に慣れている人は個性をなくすことが社会で生きる良い方法であり、個性を表現しないことが人間関係をよくするものだと考えてしまいます。それは昔の時代においては特に戦争中においてはそうだったかもしれませんが、今の時代において通用するやり方ではなくなっています。

今の時代においては自分の表現したいことを抑え、ただ相手に合わせていると自分がどんどん傷つき生きることができなくなってしまいます。また自分の本来の流れに入ることができない為に、自分の流れがうまくいかずに何をやっても相手に利用されてしまったり、相手の都合の良いように自分を合わせてしまう流れに入ってしまいます。

それは結果的に自分にとって満足しない流れになり、自分にとって光の道ではなくなってきます。あくまでも自分が満足し、自分が十分に光に満ちた流れを歩むためには自分の本来本当にやりたいこと、自分の望んでいることを見つけ、それを行動に移していく、これがとても重要です。ただ単に波風立てずに周りに合わせて生きていく、無難に生きていく、しかしもうこれは本来の流れにはなっておりません。そういうまやかしで生きるのではなく本当の自分の心を表にして生きていく、本当の姿で表現し生活していく、これがとても重要なのです。

今後はそういう観点で流れを見る必要があり、単純に人に合わせる、社会に合わせるというやり方が好ましくないこと、自分にとって自分にうそを言うことがとても辛いこと、こういうことがはっきりと分かってきます。これから自分はどういう風にして生きていくのか、どういう流れで入っていくのか、是非それを理解して自分の流れを確立するようにしてみてください。


それではアドバイスをしてみます。

Akikoさんの話の中で自分自身のここに至るまでの話や家族との関り、自分自身の本来の姿を求めてのお話しがありました。一時期自分にとってもかなり辛い時期があった、そしてある程度自分が交流を求めて行動することによりその流れから新たなる流れへと切り替えることができた、これはあなたの道を見た時、とても神秘的なものが隠されています。その頃あなたには複数の選択肢の可能性があり、どの道をどう選択しようとも結果的にあなたにとって大きな流れに入る仕組みがつくられておりました。その大きな流れの行く先は最終的にはあなたの予定した流れに入っていきますが、そこに至る道はそれぞれ別個の道であり、どの道を選択するのかはまったく決まっていませんでした。どの道を選択しても最終的にはあなたのつくった流れに行きますが、そこに至るまったく別々の道が用意されており、それはあなたが自分で選ぶことになっていました。どの道を選ぶのかはまったく決まっておらずあなたが自分で選択するように決められていたのです。そしてあなたはその決定すべき時期に入ってもまだ自分で決断することができないまま現実を送ったためにまだ現実として流れが確立されないまま流れの中に入ってしまい、現実が中々つくられにくい状態にありました。そのためまだ決まっていない現実の流れとそれを決めていなければならないマインドのレベル、でもスピリットのレベルでは明確に複数の選択肢をもう既に用意されている、こういう波動の中で現実とマインドとスピリットがうまく噛み合わない時期がありました。その時に情緒不安定になり自分でどこに向っているのか、何を行動して良いのか分からない状態になっていました。ある程度あなたが自分をどうして良いか分からなくなったとき、あなたのハイヤーセルフのほうがある程度あなたに選択させる一つの道を判断し、その道に導くための人間関係をつくるように動かしていきました。そしてその方向性がある程度見えてきた時、あなた自身が確実にその方向に向って自ら歩き出し、そしてそれがここに至る流れになっています。したがって、あなたが途中から行動して進んできたものはあなたのハイヤーセルフがあなたに与えた流れとも言えるでしょう。その思いをあなたが受け取りあなたがそれに従って行動してきたとも言えます。これが良かったのかどうかそれは難しい判断があります。何故ならばはじめハイヤーセルフは直接関与することなくあなたが何を選択するのかをただ黙って見ていた時期があったのです。それはあなた自身がある意味ではハイヤーセルフとの交流を自ら絶ち、ハイヤーセルフの意志ではなく自分で決断するという判断をしたことから始まります。そのためにハイヤーセルフはあなたとの繋がりをむしろ断り、あなた自身が自分でどこを進むのかをただ見ていたのです。しかしあなたが一向に先に進むことなく混乱を重ねるに従ってハイヤーセルフがあなたの前にエネルギーを送り、そして流れをつくり出してきました。したがって、まずあなたに理解していただきたいのはハイヤーセルフをしっかり信じるということとハイヤーセルフを信じないということの差がそこでいかに理解できるかどうか、ハイヤーセルフを信じているとハイヤーセルフのパワーで流れをつくってくれます。ハイヤーセルフを認めていない時ハイヤーセルフはあなたにパワーを送ることがありません。その違いをあなたが理解できたかどうか、そして今後はどういう風にして流れをつくっていくのか、それさえも又あなたの自由意志であり、あなたの自由意志に従ってすべてが現実化されていくこと、そういったことを理解して自分の流れをつくるようにしてみてください。

Yoshiyukiさんの波動において、あなたはまず自分自身のことをどこまで他の人に素直に表現できるか、自分で考えている自分の姿、他人が考えているあなたの姿、それにあなた自身がどう自分で気付くかまたそれを認めることができるか、それによってあなたの現実がかなり変化していきます。自分の姿を自分でどう正直に受け取ることができるのか、自分の考えている自分の姿、他人が考えているあなたの姿、その違いを自分で理解し、それをどう自分で改善しようとするのか、それに自分の本心から自分の行動力で立ち向かわない限りあなたの現実は何一つ変わることなく、また変えようとも思わないのかもしれません。自分の現実は自分でつくり上げたもの、誰のせいでもなくすべてが自分でつくり上げているもの、したがって、現実を変えたいのであれば自分を変える必要があること、自分を変えるためには自分を変えるパワーが必要であること、まずそれをよく理解しすべては自分の中から生まれてくるもの、それに沿っていろんな流れをつくるようにしていってください。

Gyoukouさんの先ほどの話で自分が今まで思っていた自分と違う感情や思いをもっていたこと、他人に対しての思い、母親に対しての思い、いろんな気付きを自分の言葉で話していただきました。すべての人間において自分では理解することのできない自分のエネルギーがあります。それはどれだけ頭を使おうとしても頭で分かるのは表面意識の範囲であり、潜在意識、あるいは無意識の領域においては自分の言葉で解明できるものではありません。言葉では解明できない自分の意識の世界をまず理解し、そして実際には自分と思っている意識の大部分がいわゆる潜在意識や無意識の世界であること、自分で理解できる表面意識の世界はほんのわずかの自分の姿でしかないこと、しかし自分の潜在意識や無意識を毎日あなたに見せていること、この現実のからくりをもっともっとよく理解できる仕組みがそこにあるのです。自分の潜在意識、表面意識、健在意識、自分が頭で理解できるのは自分で分析できる表面意識、健在意識の世界です。それは明確に自分で分析し理解することができます。しかしいくらやっても自分の頭では理解できないところが必ずあるのです。それはあたかも自分の後頭部や自分の背中を自分の目でみることができないのと同じように自分の考えでは絶対及ばないところがあるのです。そしてその部分を実にものの見事に他の人の言葉を通じてあなたに情報をもたらしてくるのです。あなたの後頭部や背中は他の誰もが見ることができます。あなた以外のすべての人間があなたの後頭部や背中を見ることができます。しかし唯一自分自身が自分の後頭部や背中を見ることはできないのです。それと同じようにあなた以外のすべての人間があなたの考えや思い、行動や感情の面についてわかることがあっても唯一本人だけが分かっていないというのがあるのです。そしてその部分を他の人はいろいろとあなたに日常を話し掛けてくるのです。あなたが他の人から聞いた話や聞いた言葉の中で感情的に浮かんでくるもの、概念として浮かんでくるもの、それはおかしいとかそれは何か変とか、そういった不思議と思うもの、変だと思うもの、実はそれはすべて自分のことなのです。そしてそれは自分の後頭部であり自分の背中なのです。普段自分で目にしていないために単に自分と気付くことができていません。自分と気付くことはできないし、見た事もないのでそれを自分だと信ずることはできないでしょう。それは自分であると認めることもできないでしょう。でも基本的にあなたに入ってくる言葉はすべてあなた自身のことなのです。それにいかに自分で気付くことができるのか、それをすべて理解できた時、自分の頭で理解できるものは自分の目で見える範囲であり、自分の頭で理解できないそれ以外のことはすべて他人の言葉を通じて自分にやってくる、それは自分の見ることのできない後頭部や背中を他の人が教えてくれていること、これを見た時、自分と他人との関係、つまり他人は自分であり、他人の言葉は自分の言葉であり、他人の目は自分の目であること、その関係がすべて見えてきます。自分と他人との関係、つまり他人を語らず自分を語ることはできないこと、他人抜きに自分を知ることはできないこと、いろんな関係が見えてきます。自他が同じであること、自他の差がないこと、その辺の関係が見えてきた時、改めて自分とは何であるのか、他人とは何であるのか、何故他人が必要であるのか、いろんなことが分かってくるでしょう。そう思った時自分にはこういったものがないと思っていても基本的には他人の中で感ずるものはすべて自分のものであること、そういったこともいろいろ分かってくるでしょう。新たなる今後の意識の発展のためにさらなる学びと成長をしてみてください。

Hideyukiさんの話でいろんな最近の若い人たちのうつ的な人々の話、またそれらに対する自分の対処の仕方などが話されておりました。今生まれてきている若い人々いわゆるインディゴの子供たちと皆さん方の世代では根本的に違うものがたくさんあります。単に肉体や魂の違いだけではなく、もう物事の考え方、極端な話すればもう物事の認識の仕方、意識の持ち方そのものも違ってきております。他人を見て他人と思うこういう出発点からして違ってくる場合があります。人間を見ても人間という風に思う連想すらも違ってくる場合があります。人によってはそもそも自然と人間との違いを感じていなかったり、いろんな生命との違いをいちいち区別していなかったり、したがって、中には家族であろうが、虫であろうが、ペットであろうがまったく違いをつくっていなかったり、かと思えば自分とやはり大人との違いに明確な違いがそこに感じられていて一旦違うと思ったものには二度と口をきかなくなったり、心をまったく開けなかったりしてしまったりいろんな人がおります。その辺の行動のパタンの広さはこれまでの人間にはないくらいのとても大きな違いになっています。今まではある行動に対してある程度認められていた行動パタンの違い、表現の違いといったものが何十倍にも何百倍にも拡大してきており、これまでの思った常識の範囲内では収まらなくなってきています。そして一般に常識の範囲内に収まっていれば正常な人間であり、常識の範囲に納まっていないものは病気、それもうつ病とか、精神病とかいう風に判断されていきます。あくまでも常識の範囲に留まっているのか留まっていないのかで正常な人間なのか、あるいは精神に病がある人かどうか、こういう分類がなされていきます。そしてこれまで正常とされていたものはいわゆる古い人間たちのつくり上げた概念の範疇に収まる人が正常な人間であり、これまでのつくり上げた社会の基準にあっていなければ精神に異常のある人という分類が成されておりました。しかしそういう単純なルールをつくると今の若い人の大部分の人が精神異常になってしまいます。元々そういう人間であり、彼らの社会においてはそれは当たり前のことなのです。むしろ彼らの意識からすれば皆さん方の大人の方が異常な人間のように多分感じられるかもしれません。全員が皆同じような行動を取る、同じような常識という基準に従っている、モラルや常識、道徳観が一つのつくられた基準に合わさっていて、皆でそれを守ることがまるで人間性が良いかのように信じられている、今の若い人から見たらそのように映っているでしょう。したがって、若い人から見ればむしろ社会に適応している人間の方が嘘をついて生きている病的な人間のように感じられているのです。どちらが本当に病気なのか、どちらが精神異常なのか、これはお互いに相手を精神異常であり異常であるのと判断しているのと同じでしょう。これは光の世界でも同じであり悪魔が天使を見た時、悪魔のように感ずるのと同じように今の若い人々が大人を見た時に異常な人間だと感じてしまうのです。何をもって正常と判断し、何をもって精神に異常があると判断するのか、これはとても判断が難しい社会になっています。しかしこれすらも当然意味があり、また学ぶべきテーマがあり、また成長のために是非とも必要な経験と言えます。今までの大人の社会においては常識に従い社会的通念に合わせ、皆とうまくやることが良い人間であるかのように育てられてきました。実際それで経済を成長させ、ある意味では成功者と名乗ることができました。しかし今新しい人々が生まれてきた時、果たして成功者とは誰でしょう。もう自分の言うことを聞いてくれないそういう部下がいっぱい集まってきた時、だれが成功者になるでしょう。かつての成功者は多くの従業員を自分の命令によって従わせ、皆をまるで人間をロボットであるかのように使いこなした人が成功者になっていました。人間を機械扱いした人が成功し大金を手にすることができたのです。皆さん方が信じていた良い人間、成功する人間というのはそういう人間をさしていたのです。人間を人間と思わず歯車のようにロボットのように思っていた人が成功者だったのです。今生まれてきている若い人々は人間を人間として見ているために、そのようにロボットのように、歯車のように扱う人間を人間とは思わないでしょう。人間を人間として見る時代がきた時、じゃ誰が成功者でしょうか。歯車やロボットのように扱わない人、そういう人々で成功者をもし求めるのであればどういう姿を成功者として見ることができるでしょうか。これが今求められている社会での一つの要素といえるでしょう。今成功している人々は人間を、つまり親の場合は子供を、先生の場合は生徒をロボットのように歯車のように教育することによって自分たちが成功者であるという、そういう証拠をただ見たいのに過ぎません。またそれを維持したいのに過ぎません。でも今生まれてきている人々はそれが成功者だとは誰も思っていないでしょう。ではそういう人々から見た時真の成功者とは誰であるのか、人間が人間らしく生きるということはどういうことなのか、そういう社会はどういう社会なのか、それを本当に彼らに示すことができ、見せることができ納得させることができたのであれば若い人は皆ついてくるでしょう。しかし今は誰もそれを見せることができず、さらに権力で従わせようとする、さらに言うことをきかせようとする、そのために誰もついてくることができずよりギャップが広くなっているのです。もし本当に若いパワーを使いたければ若い人と良い関係をつくりたいのであれば人間としてしっかり認め生きるには何が必要なのか、歯車やロボットでない人間を育てるということはどういうことなのか、そしてそれをしっかりと彼らに教えることが必要になってきます。今後の社会に向けそういった観点で取り組むようにしてみてください。


今日の皆さん方の初めの話においてとても重要なことがたくさん話されておりました。本当に人間の心は何が大事なのか、今後の社会においてユートピアをつくるために自分はどういう心が必要なのか、自分に欠けていた心は何であるのか、それを気付かせるのにとても良いテーマが話し合われておりました。あくまでも自分の心が社会に影響し社会をつくっていきます。自分は社会の中でとう生きるべきなのか、どういう心が重要なのか、今後もそういった観点で常にお互いに話し合うようにしてみてください。それでは少し休憩を取ります。ありがとうございました。


A自由意志と自己責任

私たちは光の仲間としてお話をいたします。今日はいろんな人間関係における繋がりを通して自分の心を感ずるやり方をしてきました。所詮人間はいろんな人間と交流し、分かち合い、関係をつくり上げながら体験を通して成長していきます。そしてその成長するやり方にもいろんなやり方があり、自分で一生懸命学ぶ人もいれば、他の人からいろいろ言われて成長していく人、自分の興味あることだけをやって成長していく人もあれば、苦手なところを克服して成長していく人、いろんな成長の仕方があります。

そしてそのどれをどう選択しようともすべてが自由意志の範囲内であり、皆さん方が何をどうやってもすべて許されております。何もせずにただ周りから言われたことだけをやる、しょうがないからやるべきことだけを最低限やっていく、そういう生き方も可能でしょうし、自らの意志でどんどん先へ進みやりたいことをすべて挑戦して克服していく、そういうやり方もあります。

では楽なやり方から苦しいやり方、いろんな選択肢ある中でどれも許された道であるのであればどうやっても最終的に同じなのか、確かに人によってはすべて最後同じところに行くのであれば楽な方法をした方が良い、そういう見方をする人もいるでしょう。

ところがやはり楽な道を選んだ人と自らより強き道を求めて歩んだ人では結果もかなり変わってきます。ここが宇宙の仕組みの面白いところでありやはり自ら叱咤激励し、頑張り努力した人にはそれなりの成果が自分に戻ってきます。では何も努力せずになるべくずるをして楽をして他人の力を利用して帳尻を合わせている人、一見結果的には同じように見えるかもしれませんが、まだまだゴールはそこで終了するわけではなくさらに次のサイクル、次のサイクルが待ち構えております。

次のサイクルへ行く時の出発点、ゴール、用意されるもの、そこで差が出てきます。自分の力で頑張っていろいろ身に付けてきた人は次のサイクルにおいてそれを武器として使うことができるでしょう。自分が手に入れたもの、勝ち取ったものを自分の財産として使うことができます。しかしほとんど自分の力で手に入れることができなかったものは次のサイクルにおいて自分の財産として使うことがどうしてもできなくなってしまいまいす。

人によっては生まれつき貧乏で、どうして不幸なのか、そう思うかもしれません。それは単純にこれまでのサイクルにおいて自らエネルギーを勝ち取ってこなかったことのシンボルでもあります。やはりこれまでのサイクルにおいて一生懸命自分の力で勝ち取ってきたものは与えられるものがより多く与えられている場合があるのです。

そういった意味においてもし自分がさらに次のサイクル、次のサイクルでよりよく幸福で幸せな道を歩みたいと思うのであれば今なるべく多くのものを自分の手で実現させる、引き寄せる、そういった体験が必要になるのです。しかしそれはすべて自由意志であり、何もそんな苦労しなくてもなるべく楽をしてさぼって他人の力で過ごしていく、それも自由意志として与えられており確かにそれでゴールには届きます。ただ次のサイクルの時に自分の勝ち取ったものの範囲内で次のサイクルをつくるために、結局人を利用したり楽をしたというエネルギーしかそこで使うことができません。

そのエネルギーで次のサイクルをつくる時また楽をして他人を使うというエネルギーでつくったのであれば、また同じ事を繰り返していくでしょう。そしてまた自分の裕福な環境が設定できない時また他人の所為にしたり他人から奪うということによって富みを勝ち取るのかもしれません。皆さん方のそれぞれの人生においていろんなつくり方があり、いろんな流れがあります。

すべて自由意志であり自分でつくることができるのです。しかしだからといって楽だけしておけば必ずしも良いわけではないということ、そういった繋がりを理解するようにしてみてください。それではここまでにいたします。ありがとうございました。


(c)2005 CentralSun
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